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_「一から十」

_「一から十」

ブログタイトルの「一から十」には、自分の見たこと聞いたこと感じたこと「一から十まで、すべて」という意味と「マイナス(-)をプラス(+)に転化する」という意味と「一を聴いて十を知るものであって欲しい」という思いを込めています。人生の戦いに日々格闘する方々と、前向きに生きていくための勇気と知恵と活力を分かち合いたいと思います。

 

渋谷

今日、本社出張だった。行きは、電車に座れてラッキーだったが、帰りは重たい荷物をもってずっと立ちっぱなしだったので、大変疲れました。定刻に会社を出たので、久しぶりに渋谷で寄り道した。街はクリスマスの色とりどりのイルミネーションが輝き、都会のパッとした華やかさに包まれてよかった。渋谷は、若者の街、おじさんも時々歩いているが、ごく少数派で肩身も狭い。若者の街ということもあり、帽子950円均一セールなど物価は結構安そうだった。街の様変わりも激しい。しばらく来ない間にお店の新陳代謝も激しい。そんな中で、懐かしい看板を見つけた。渋谷交差点の忠犬ハチ公側のちょうど対極にあるビルの上階にある「居酒屋カチカチ山」です。大学時代の寮の仲間と渋谷に来た時に飲んで以来、度々使ってきたお店だが、最近は足が遠のいていた。当時の思い出がよみがえってきて懐かしかった。こんど、家族で東京へ出た際に寄ってみたいと思う。渋谷と言えば、妻と初めて出会った場所も渋谷だったし、いろいろ思い出が詰まった場所である。渋谷は、山手線の駅に中でも、縁のある駅の一つで、これからも末永くお付き合いしていきたいと思っています。
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テーマ : 東京23区    ジャンル : 地域情報
 
 

デリカシー

昨晩、我が家でちょっとした事件というかけんかがあった。私の発言が原因だった。小4になる娘の肉体的な成長に関して気がついたことを何気なく意識もせずに発してしまった言葉が原因だった。娘をいたく傷つけてしまったようだ。妻からは「デリカシーに欠ける。」と言われた。
子供だった思っていた娘も小4、最近の女性の成長の速さを考えても、そろそろ大人の仲間入りする時期で、いろいろと多感、敏感になる時期なので、こちらも気を使わないといけなかったと反省している。
「デリカシーのない男」とよく聞くことがありますが、女性のコンプレックスな部分、気にしている部分を他人の前でずけずけ言ったりするような奴だと理解しておりますが、私も家族とはいえ、もう少し考えて言うべきでした。

思った事を何のフィルターを通さず言ってしまうのは、大人げないということで、大いに反省している次第です。
誰に対しても一言言う前に、これを言ったら相手はどういう気持ちになるかを考えてから発言するように心がけたいです。先日も書いた「口は災いのもと」をまた痛感させられた出来事でした。

テーマ : 家族    ジャンル : 結婚・家庭生活
 
 

即断即決

仕事をいかにさばいていくかで、いつもモットーにしているのが、即断即決です。問題を先に持ち越さずに、その場で結論を出す。どうしても結論がでない難問の場合は、何日か寝かして熟考もやむをえないかもしれませんが、なるべく短期間で結論を出す。仕事が大量に次から次へと押し寄せてくる中で、即断即決できるだけの判断力、スキル、準備を日ごろから行っておけるかどうかがその分野でプロフェッショナルといえるかどうかの分かれ目だと言えるかもしれません。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

堺市

今日、堺市にある会社のとある技術について調べたので、せっかくですので堺市にバーチャルトリップしたいと思います。堺市には実際、3年ほど前に会社の出張で訪問したことがあります。トンボ帰りの出張でしたので、観光めいたことはしておりませんが、小学生のころから社会の教科書などでなじみのある仁徳天皇稜のかの有名な前方後円墳があるのが堺と聞いて、由緒ある町なんだという印象を持った記憶があります。堺市(さかいし)は、大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市である。大阪湾に西面し、北は大阪市、北東は松原市、東は羽曳野市、富田林市、南東は大阪狭山市、河内長野市、南西は和泉市、高石市に接している。市内は7つの行政区に分かれ、堺区が北西部に、美原区が東端部に位置する他は、中区・東区・西区・南区・北区と方位による区割となっている。「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国、河内国、和泉国の「境(さかい)」に発展したことによると言われている。
古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の釜跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在も残る。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。 神功皇后が三韓征伐からの帰途、七道の浜に寄り、地元の豪族の田蓑宿禰に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたという(住吉大社の起源)。
飛鳥時代になると、難波宮、難波京や難波津から四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道と、飛鳥の都と方違神社を東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)、大津道(長尾街道の前身)が整備される。奈良時代から室町時代にかけて、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡・東区日置荘周辺には河内鋳物師と呼ばれる人たちが多く住んでおり、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。
平安時代には熊野詣の宿として境王子と大鳥居王子が設置された。鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立。
南北朝時代には、南朝(吉野朝廷)方の住吉大社宮司の津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家や三管領の細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代には明やルソン・カンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。
応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯びる。布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。
安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、その価値に注目した織田信長、豊臣秀吉らの前に屈服。自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれる。その後、秀吉が大坂城を築き、城下町が開発されるに伴い堺商人の多くが大坂へ強制移住させられたため、堺の都市機能は著しく低下した。同様に全国各地の城下町にも堺商人が移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲生産が盛んに行われ、また文化面では今井宗久や千利休、津田宗及に代表される茶の湯などが特記される。特に信長から武装解除された橿原市の今井町との交流は深く、竹内街道を通じ江戸時代まで毎日行き来した。「海の堺」に対し「陸の今井」と呼ばれ、堺同様に自治都市として栄えた。
江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなった。これにより、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。
しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は莫大である。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人が集中していた。一方で堺は積極的に海運のため、全国の主に海岸の中小都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多、鹿児島、大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪、名古屋、東京なども例外ではない。
江戸時代でも後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で再度活気を取り戻すようになる。幕末になり、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近いことを理由に堺がその代港候補に挙がる。だが幕府内の勤皇派は、堺周辺には古墳が多いため、堺を開港地にすると外国人が無断で古墳に出入りする可能性があると指摘。そのため、第二候補であった兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。この結果、堺は中世以来の国際貿易港への復帰の道を閉ざされ、その座を神戸に明け渡すことになった。明治以降は、紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げていき、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を作り上げていく。また、戦後の高度経済成長期以降は大阪都市圏の発展・膨張とともに、泉北ニュータウンの開発に代表されるような、大阪市のベッドタウンとしての側面も兼ね備えるようになった。2009年10月1日 世界最大級のシャープ堺工場が操業。
堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。
1945(昭和20)年当時、日本には180の都市があり、うち58都市がアメリカ軍による空襲を受けた。アメリカ軍は180都市を人口の多い順に空襲する作戦をとり、堺市は人口18万人で空襲順位は24位であった。広義の「大阪大空襲」で着弾目標地点が置かれたのは大阪市(空襲順位2位)と堺市、尼崎市(同25位)のみである。アメリカ軍は堺市を空襲都市に選んだ理由を「堺の主要価値は大阪市に近接していて、その工業が大阪市と統合されていることである。また、この都市は大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供している。大阪の工場に打撃を与えるために、堺の軍需工場は疎開可能箇所として重要である」(アメリカ軍の作戦任務報告より)としているが、実際は非戦闘員を目標にした無差別爆撃であった。被害は工場より民家に集中した。
2005年2月1日に東隣の美原町を編入合併した。この編入合併によって政令指定都市の実質上の要件である80万人を超えたため、2006年4月1日に政令指定都市へ移行した。堺市に本社を置く企業としては、コーナン - 東証1部。日曜大工小売店から出発した関西最大のホームセンター。くら寿司 - 東証1部。ロードサイド型の回転寿司店を展開。社名はくらコーポレーション。サカイ引越センター - 東証1部。引越し業界2位。「サカイ品質」で全国展開を図っている。
姉妹都市・提携都市 は、種子島(鹿児島県西之表市、熊毛郡中種子町、熊毛郡南種子町) バークレー(アメリカ合衆国カリフォルニア州)である。
(情報ソース:Wikipedia)


 
 

サラリーマン向きじゃない?

20年近くサラリーマンやってきましたが、最近、自分はサラリーマン向きじゃないなあという感を強く感じています。自由奔放な研究者の延長線上としてきてしまって、すっかりサラリーマンというものを理解しないでやってきてしまった感じがします。言葉は悪いかもしれませんが、サラリーマンって一部のトップ以外は、会社の歯車となることが求められているんですね。歯車になることをきらって、いつまでも歯車になりきれない中途半端な人間はサラリーマン失格ですね。会社というところは、集団で事業を行い、利益を上げる集団ですから、集団を役割分担で機能的に分けて、それぞれが歯車のように連携しあって組織が運営されるようになっています。役割分担で適材適所というところで振り分けがなされて、意に沿わない職種につかざるを得ない場合も多々あります。みんながみんな花形部署を希望していたら企業は成り立ちません。競争に勝ち抜いた一部の人が花形部署で目立つ仕事につき、残りの多くは、意に沿わない仕事にも嫌な顔一つせず元気に励むことが望まれています。それぞれが配置された職場で高度な仕事を全うし、それらの総合として会社がうまく進めばいいということです。一隅を照らすという言葉がありますが、まさに自分の持ち場で精一杯精進することが重要だということになります。サラリーマンは歯車、でも、ひとつでもかけたら(実際は代替する方がおおくおられるわけですが)全体がうまく動かない。そんな歯車を立派にやり遂げられたら立派なサラリーマンだと思います。


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エクセレントカンパニー

トム・ピーターズとロバート・ウォーターマンによって書かれ、大前研一によって邦訳されたビジネス書「エクセレント・カンパニー」(1983年、講談社)から刊行という良書がありますが、その中で、超優良企業になるには8つの基準を満たすことが必要だと指摘されています。だいぶ昔に書かれた本ですが、基準は普遍的なものであり、今でも十分通用するものだと思います。企業に身を置くものとして、念頭置いて常に現状を検証しながら行動していきたいと思います。
1. 行動の重視  
2. 顧客に密着する  
3. 自主性と企業家精神 
4. ひとを通じての生産性向上
5. 価値観に基づく実践  
6. 基軸事業から離れない 
7. 単純な組織・小さな本社 
8. 厳しさと緩やかさの両面を同じに持つ
どれもこれも企業経営の指標として重要なものばかりですが、その中でも、顧客密着、起業家精神、基軸事業から離れない、小さな本社には強く共感を覚えます。


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悔しいと思った時は、自分の貢献度を思い浮かべる

会社で仕事していると理不尽なことに遭遇し、心底悔しいと思うことも多い。会社からの評価で、誰から見ても一番はっきりしていて、明確な基準は、あなたは会社の利益にどれだけ貢献しているんですか?ということになる。自分自身にその問いを投げかけたら、何も弁解できない自分がいることに気がつく。会社でそれなりに役割を与えられ、研究をし、特許出願をし、間接部門で、各種企画や、裏方の仕事で奔走してきたわけですが、自分の力で自分の貢献度の大きい範囲で、目に見えるはっきりした利益をもたらせたかどうかといえば、残念ながら?である。周囲をみても、目に見えた利益を上げたヒトというのは、会社の製品として上市できた方くらいで、なるほど、確かに、社長や本部長に登用されている。上市に結びつけなかった人でも、誰もが嫌がるような3Kの仕事を自ら立派にやり遂げた方が評価されている。目立たないけれど、誰もが敬遠するようなどぶ掃除、雑巾がけ、トイレ掃除などを嫌な顔一つせず、立派にやり遂げた人に比べれば、まだまだ自分の評価など大したことないことに気がつく。
テーマ : ビジネスブログ    ジャンル : ビジネス
 
 

夢に出てきた昼休みの社内放送

また、昨晩、夢を見た。それもしっかり記憶に残る夢である。場面は、なんと会社の昼休み。学校などでよくある放送部による昼休みの放送。実際、会社では、昼休みの放送などないのであるが、なぜか、夢の中で放送があった。自分は、何かに気を取られて放送には、気がいっていなかったのであるが、なぜか、放送が終わった途端に、昔研究所時代に親しかった懐かしい面々が次から次へと登場して、今の匿名の放送だけどあなたのことでしょう?と皆から問い詰められている夢でした。放送では、研究所での日々の研究についての夢や職場の交流や環境について匿名の自分がいろいろ語っていて、その内容を聞いた仲間が、私のことだと気がついて、私のところに駆けつけてきたというわけです。とても不思議な夢でした。何を暗示しているのでしょう。夢が自分の抑圧された潜在意識の彷彿するものとするならば、この夢は、全然意識していませんが、研究所時代の封印された何かの表れだと思われますが・・・・それ以上のことは不明です。夢で見た社内放送をブログに置き換えてみるとこれはこれで現実味を帯びてきます。
テーマ : 日記    ジャンル : その他
 
 

佐賀市

昨日、佐賀市の方に、用あって連絡を取ったので、本日は、佐賀市にバーチャルトリップしてみたい。私自身、佐賀市に行ったことはないかもしれない。佐賀県は、長崎、熊本旅行の際に通過した程度かもしれない。高校の修学旅行が北九州で、長崎、平戸、熊本へ行く際に観光バスで通過している。本では鍋島藩の精神的支柱となった武士の心得をまとめた「葉隠」をかじったことがある程度である。余談であるが、純な高校時代、修学旅行の際にお世話になったバスガイドさんに地元から帰ってからラブレターめいたものを送ってしまった。ほどなく、ガイドさんからお返事を頂戴してとてもうれしかった思い出がある。青春時代のせつない思い出である。さて、佐賀市であるが、佐賀市は、佐賀県の県庁所在地で、人口約24万人を有する佐賀県最大の人口を擁する市である。九州7県の県庁所在地では最少であり、県庁所在地以外を含めると佐世保市に次いで九州で11番目に人口が多い市である。
佐賀県の経済・行政の中心地。有明海から脊振山地までを縦断する広い市域を有し、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市(早良区)に接している。県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。江戸時代より佐賀藩の城下町として発達してきており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。市中心市街地の人通りはバブル崩壊以降加速的に減少の一途を辿っている。商店街で次々と店舗の閉鎖や撤退が進行していわゆるシャッター通りとなり、空洞化が問題となっている。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。
1608年(慶長13年)、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。、城周辺を再整備し、肥前佐賀藩の城下町として栄える。
夏に雨が多い太平洋側気候、その中でも温暖で年平均気温が17℃前後と高めの九州型気候に入る。また同じ九州北西岸の福岡市や長崎市と同様に、冬季は降水量は少ないが曇天の日が多い特徴がある。
佐賀藩は別名を肥前藩ともいい、明治維新において、版籍奉還を上奏した「薩長土肥」の1つとなった。また、長崎に近かったため西洋の科学技術を積極的に導入し、幕末には精錬方(藩立の科学技術研究所)、反射炉、三重津海軍所(造船所・海軍修練所)などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機(エーセルテレカラフ)、暗箱カメラなどが外国の技術者に頼ることなく独力で製作され、我が国の科学技術近代化に大きく貢献した。
特産品として、丸ぼうろ(菓子)がある。

 
 

口は災いのもと

自分が被害にあって大いに気がつかされることがある。いろいろな考えがある中で、自分が良かれて思って言ったり、行動したことでも、他人から見たら良く思われていないことや、他人を傷つけてしまっていることが多々ある。自分がいろいろな意味を込めて発した言葉であっても、説明不足なのか、一面的にしか伝わっていないんだなあ、見ていないんだなあと残念に思うことも多々ある反面、何気なく正論だと思って発してしまったことでも、相手の心にぐさりとささって、後々まで禍根を残すことも多々ある。何もしゃべらなければそんな波紋は生じないのだが、しゃべったり書いたりしたがゆえに相手を不快な思いをさせてしまうということがある。良き方向にもっていこうとするがための前向きな発言であっても、受け取る側がそのように感じなければ逆効果である。
仕事の世界、プロフェッショナルの世界に遠慮はいらない。ビジネスの世界は闘いだ。だから、遠慮なく正論をぶつければよいと思って、思うところをどんどん述べてきたが、その分、後味の悪い思いもたくさんしてきた。自分の意見に自信があるゆえに、他人の思いを察したり、気配り、配慮に欠けていた面は否めない。様々な価値観をもっち、様々な意見考えをもった集団をまとめていくことほど骨の折れることはない。「知に掉させば角が立ち、情に掉させば流される。とかくこの世は棲みにくい。」という漱石の草枕の名句につきる。一生懸命に真剣に打ち込めば打ち込むほど厳しい意見も口にしたくなる。最初から斜に構えて取り組めばそれほど向きになることもないのかもしれない。またオブラートに包んで婉曲的に表現したり、多少エネルギーを要するかもしれないが、相手を傷つけたり不快に思わせることなく正論と思うところを表現する術をもっと学ばなければ、集団は動かせないということを痛感する。歳とって闘う意欲が減退してしまったのか、しばらくは、静かにしていたい気持ちである。

テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

自転車の故障スパイラル

1週間前に直したばかりの自転車であったが、また具合が悪くなってしまった。昨日の晩、その不調に気がついた。後輪の空気が抜け始めたのである。1か月前のすれ傷にはじまって、1週間前の微小なパンク修理、度重なる不調に閉口している。量販店で購入した1万2千円の安自転車だったということで、4月に購入して以来半年は何事もなく順調であったが、半年過ぎたくらいから後輪に空気抜けの傾向がみられるようになって、この1カ月の不具合連鎖となっている。昔から自転車には縁が無くて、すぐにパンクしてしまうので、またかという感じであるが、自身の90キロ近い体重が自転車に負荷をかけているからということも一理あるかもしれない。妻から20キロは痩せてと言われているが、この度重なる自転車故障は、自転車からの悲鳴と受け止めて、ダイエットにも真剣に取り組んでみようかなと思っているところです。(いつまで続くやら・・・・・?)そんなわけで、夕方、1週間前にパンク修理してもらった自転車量販店のあさひに早速持って行って、調べてもらって原因がわかりました。空気が少ない状態で自転車にのっているうちにタイヤの中でチューブがすれてチューブが傷ついて薄くなっていたらしい。この前パンクが見つかったところもまさにすれ傷でうすくでこぼこになっていたところで、補修した場所から空気が抜けていることがわかった。チューブ自体を交換するしかないということでチューブ交換と、タイヤも見てもらったところ、だいぶ劣化してタイヤのわきの部分に割れ目が結構できていたことからタイヤもついでに交換してもらうことにした。チューブは一般用よりちょっと高めの26%肉厚の耐パンク性のチューブとちょっと割高だがやはり肉厚で耐パンク性のタイヤに交換してもらった。1か月前のすれ傷修理で1500円也、1週間前のパンク修理で840円也、そして本日の交換修理で4475円也で、購入してから半年余りで7000円弱の投資となってしまった。こういうのを安物買いの銭失いと言うんでしょうね。


テーマ : 自転車    ジャンル : 車・バイク
 
 

松の腹巻き

私の職場には松が多く生えています。結構大きなものから選定された小ぶりの松までバラエティーに富んだ松が、入場門から建屋に至るまでの歩道沿いにたくさん植えられており、基幹工場、研究所としての歴史・伝統、風格を感じさせてくれています。その松が一斉に藁の腹巻きをしました。職人技が光る冬の風物詩として、冬の到来を感じさせてくれる風景のひとつです。この腹巻きというか胴巻きですが、ここのところ、本格的な冬の到来を感じさせる朝晩の冷え込みが続いていますので、松も風邪を引いたりお腹を壊さぬように防寒対策で腹巻きを締められたのかと思いきや、実は、防虫対策だということを知り驚きました。松の幹に藁を巻くのを「こも巻き」というそうで、松にはマツカレハ等の松喰い虫がつきますが、冬になると、暖かい株元で越冬するために、枝から幹を伝って降りてきます。途中にこもが巻いてあると、虫はそこに潜り込んで越冬しようとするので、藁の筵ごと焼き捨てることで、一網打尽できるというわけらしい。昔から伝わる生活の知恵というものですね。またひとつ勉強になりました。
テーマ : 日記    ジャンル : その他
 
 

テレビの見れない生活

テレビはある、でも見れない。過去にも本ブログで触れたことのある息子の事件以来、我が家のリビングのテレビは負傷中であるが、最近その傷は拡大の一途をたどっており、スイッチ入れてから15分程度は、ほとんど画面は真っ白で見れない状態で、かろうじてなんとか半分程度見れていた画面が、ほぼ壊滅状態で、音だけを楽しむ大型平型ラジオと化してしまっているのが現状である。このようなテレビがあっても無用の長物で見れない不便な状態が続いているわけであるが、買い替え無いのには理由がある。怪我の功名ではないが、テレビが破損して以来、子供たちの勉強している時間が増えたことと、家族の団欒の時間が増えたことである。テレビのある時はテレビに夢中で家族の会話どころではなかったが、最近、テレビをつけなくなったので、会話が増えたのである。この状態は、以前から望んでいた状態であり、奇しくも、テレビの破損がもたらしてくれた幸運である。神様は我々を見ていないようで見てくれているんですね。
テーマ : 家族    ジャンル : 結婚・家庭生活
 
 

文章書くのは朝の時間が一番

朝の時間帯は物書きがはかどる。その反対で夜は、全然はかどらない。キーボードをたたくのすら億劫で、文章を紡ぐという感じではない。その点、朝は、次から次へとことばが浮かんできて文章作成がはかどる。というわけで、この朝の時間をいかに物書きにつなげるかということが生活スタイルを組み立てるうえで重要になってくる。
テーマ : 物書きのひとりごと    ジャンル : 小説・文学
 
 

人生を豊かにするスイッチングライフ

オンとオフ、パブリックとプライベート、会社と家庭などなど、スイッチの切り替えがうまいかどうかで、人生の豊かさが格段に違ってくるのではないだろうか?切り替えをうまくするには、何事も尾を引かないように即断即決をすることが必要だ。即断即決するためには、日頃から頭の中が整理されている必要がある。余計なものを背負わうに、集中力を高めて生産性を上げる。これができれば、小気味良いスイッチングライフが手に入るような気がする。切り替えをうまくして限りある人生を豊穣なものにしたい。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

人生は運だ。

人生は運だなんて言うと、一生懸命頑張っている人に怒られてしまうかもしれないが、人生はやっぱり運だと思う。私もちょっと前までは、人生は運だなんてぼやく人間が嫌いだった。努力に勝るものはない。努力していれば必ずや成功すると思っていた。でもいろいろな不遇や理不尽を経験してこの歳になるとそれは幻想であるということにやっと気がついた。会社で出世するかどうかも、良い家庭を築けるかどうかも、はっきり言って運である。人生に予定調和などありえない。無限の組み合わせ、オプションがある中で、人間はその都度選択してこなければならない。ペーパー試験もしかり、面接試験もしかり、お見合いもしかり、結婚もしかり、生まれてきた自分の子供の性格、成績なにもかもがその時の縁、出会い、偶然で決まってしまう。どんな問題が出るのか?どんな面接官なのか?どんな先生にであうか?どんな分野を専攻するか?どの専攻分野の将来性はどうなるのか?どんな会社でどんな上司、同僚と出会うのか?お見合いの相手は誰か?結婚もたまたま成り行きで・・・・・そんなことを考えれば、何もかもが、自分の意思で決めているように見えて、実はみな運任せである。人生は運なのである。だから人生の良し悪しだって運。そう思っていた方が精神衛生上もよい。あれだけ努力したのに浮かばれなかったとしても、それは運がついていなかったからだ。そのうち運が向いてくる時もあるさくらいに考えていた方が気も楽だし、長い目で見て人生もその方が総合点として良くなるような気がする。どんなことがあっても、それは運だと思うことだ。確か、経営の神様としていまだにあがめられる松下幸之助さんも人生は運だと言っていたはずだ。さすがだ。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

発想の泉

私にとって、一日の戦略は、朝風呂の中で生まれる。寝起きに寝ざめの風呂に入る習慣があるが、この朝の一番頭が冴えているときに入る風呂のリラックスタイムこそが、私の一日の中で最も創造的な時間と言えるかもしれない。いろいろな発想の原型はこのお風呂の時間に生まれているし、今日はこうしようああしようという一日の計画、あのときこうすればよかったという反省、あそこの書き方はこうのように修正した方がよいなどなど、いうなれば私の行動の指針、戦略はこの風呂の時間にだいたい整理がつけらている。朝風呂は、私にとって非常に貴重な時間となっている。
テーマ : ひとりごと    ジャンル : 日記
 
 

くよくよしない

後悔する時間があったら、未来を見つめよう。くよくよする時間があったら、わくわくしよう。駄目な時は駄目である。いくらじたばたしたって駄目な時はある。人生には、おどきもあれば、めどきもある。くよくよじめじめする暇があったら、人生を楽しみましょう。駄目な時や不遇な時は、城山三郎が「落日燃ゆ」の中で描いた広田弘毅が、左遷された際に発した言葉「風車、風がくるまで昼寝かな」を思い出したい。いつかは挽回できる時もくるだろう。いつ何時もじたばたくよくよせずに、泰然自若としていたいと思う。バカボンのように、何があっても「これでいいのだ!」と言いたいものです。あまり能天気なのも考えものですが、肯定的な人生の方がなんとなくうまくいくような気がします。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

余白のある人生

皆さんのスケジュール表に余白はありますか?会議や出張やなんやらで予定がいっぱい詰まっていて、余白が無いということにはなっていませんか?書にしても本にしても、そして人生においても余白って大事な気がします。余白が無い人生って幸せでしょうか?超多忙を極めている方がおられたら、一度自分の予定を見直してみる必要があるのではないでしょうか?やらなくてもよい、しなくてもよい予定はありませんか?特に会議など多すぎやしませんか?いわゆる3ム(ムリ、ムラ、ムダ)を省けば、結構余白の時間って確保できるのではないでしょうか?余白があなたの人生の伸びしろとなって、新しい領域、創造的な自分というものをうみだしていってくれるのではないでしょうか。私は、最近そのことに気がついて、なるべく意識して、余白をつくるように心がけています。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

ファイト!

中島みゆきは、天才歌姫だとつくづく思う。歌詞と言い、メロディーという聞いたものを勇気づける迫力がある。どれほど彼女の歌に励まされてきたことだろう。
「時代」しかり、「世情」しかり、「地上の星」しかり・・・・・・。
その中でも、「ファイト」という曲は、サケやウナギの遡上を思い浮かばせて、ダイレクトに勇気を与えてくれる曲だ。
「ファイト!闘う君の歌を、闘わないやつらが笑うだろう。ファイト!冷たい水の中を小凍えながらのぼっていけ。」
時代の傍観者や評論家になるのではなく、時代と真正面から向き合い、時代と相克する人生を歩まなければいけないとこの歌を聞くといつも勇気づけられる。

テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

セロトニンを増やすSTRESS対策

先日、会社でメンタルヘルスの教育を受講した。その際に、講師からとてもためになるお話を受けたので、ご紹介したい。
セロトニンの分泌を促し、日々のストレスを発散して、元気になれるセルフコントロールの方法として、ストレスにひっかけて、STRESSのそれぞれを頭文字とする覚えやすい6つの行動です。
まずSですが、Sは、Sleepで、十分な睡眠を取ることです。つぎのTですが、Tは、Travelで、旅をすることです。Rは、Restで気晴らしに休養することです。Refreshととってもよいかもしれません。次のEですが、Eは、Eatです。バランスの良い食事が重要です。セロトニンの分泌を促す食材としては、ビタミンB群が豊富なバナナ、牛乳、うなぎ、カキ、牛肉より豚肉などが挙げられます。次のSは、Singあるいは、SportsあるいはSunのSです。歌ったり、運動したり、日光浴することはセロトニンの分泌を促してくれるようです。最後のSは、SmileあるいはSpeakingのSです。笑ったり、おしゃべりしたりすることもよいようです。このSTRESSを実行すれば、いつでも元気でいられるそうですよ。実行して参りましょう。

 
 

社内営業

出世するためには、社内営業が必要であると言われる。集団生活であるから、上司や部下な祖周囲への気配りが重要であることにわかわりないが、社内営業と言うと過剰な印象を受けてしまって、僕なんかはなかなかなじめないところがある。特に研究者あがりなので、独創性を貫くためには、多少の軋轢も辞さずに、サイエンスベースで周囲など気にせずに突き進むと言った姿勢があった方が良いと思っていた。イノベーションの生まれるところを考えても、既存のものへの衝突、既成の概念との激しい衝突なしには生まれえないことを考えると社内営業よろしくの仲良しクラブ的なところに独創性はうまれるのか?と思ってしまう。そんな僕も会社の出世を夢見て、いわゆる会社の掟を守って、一生懸命社内営業に奔走していたつもりだったが、それはつもりであって、傍目からみれば大した社内営業ではなかったといえるのかもしれない。いつもにこやかに営業スマイルを浮かべ、人当たりがよく、敵をつくらず、だれからも愛されるようなキャラの人がいて、僕なんかは到底なりえないのでいつもうらやましく感じるのであるが、えてしてそのような方が人望も集め社内でも重要なポストに厚遇されるのをみると、やはり会社でも社内営業を自然にできるヒト、嫌味でなく自然にできる人が重用されるのだと思う。僕はあるときから自分の柄ではないということで、社内営業をなるべく忘れることにした。必要最小限の業務周辺のごく限られた範囲で誠実さをもって業にあたることに力を注いで、それ以上の前向きな社内営業というものからは、おさらばした。社内営業に精をだしたところで、それは会社の枠を出たら何の意味もないわけで、そんなことに拘泥するのも寂しいと思ったことも理由である。それにしても、社内営業を実践するのは口で言うほどやさしいものではない。結構疲れる。肉体の疲れというよりは気づかれである。寅さんこと渥美二郎さんも、役柄だからあのようなヒューマンな寅さんを演じられるわけで、私生活では、笑み一つうかべず、道ですれ違ったお客さんにも手もふらずぶすっとした表情で無言だったということだが、それもわかるような気がする。寅さんを演じるのも相当なエネルギーが必要なわけで、自分の地を曲げて役柄になりきることに没頭すれば、さすがにプライベートでは、気を抜きたくなるものかもしれない。定年退職でやめた方が、会社の時とは全然態度や人柄が変わってしまうのも、会社では、社内営業よろしく仮面をかぶっていたからなのかもしれない。最近、プライベートでも、子供のサッカーの集まりや、娘の塾の父母会など、新たなコミュニティーが出来たので、印象をすこしばかり良くする意味でも営業スマイル、営業トーク的なさわやかな印象を与えるコミュニケーションに気を使い始めたところです。同行している妻のチェックも厳しいこともあり。
テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

リーガルシフト

昔は法学を馬鹿にしていたところがあった。人間が作ったものを一生懸命勉強するより、人知を超えた自然の摂理を探求することの方がよっぽど価値あることだと思っていた。進路を決める際にも、どちらかというと理系か文系かどっちつかずの成績だったこともあって、最後まで理系か文系か迷ったが、どうせ大学に行くのであれば、大学でしかできない大学の研究施設なくしてできない自然科学の分野を選ぼうということで、当時新しい時代の黎明期を迎えようとしていた生命科学の分野に飛びついた。その後のライフサイエンスの発展は非常に著しいものがあり、この時代のダイナミックな変遷を目の当たりにできたことは人生の大きな収穫であったと思っている。そんな最先端のサイエンスを志向して時代も残念ながら過ぎ、今や若い柔軟な頭脳を持った後進たちに道を譲る番となった。今やっていることは、若い時あんなに馬鹿にしていたリーガル分野だということは、皮肉以外の何物でもないが、歳をとって、リーガルの重要性にも目覚め、人間社会という奇怪きわまる社会をうまく秩序だてていく手段としてのリーガルの奥深さ、面白さというものに開眼させられた。今や本屋さんに行っても、一番最初に立ち寄る場所はリーガルコーナーとなってしまった。過去に培ってきたテクノロジー・サイエンスの知識、経験と、新う勉強しだしたリーガルの見事な融合の挑戦により、新しい地平が見えてこないかと毎日ワクワクしているところです。
テーマ : ビジネス    ジャンル : ビジネス
 
 

新型Atenza

足回りの話になるが、6,7年ほど前になろうか、マツダのアテンザのスポーツワゴンタイプを購入して乗っている。累積距離は6万キロ強なので、年間1万キロ程度走ってきたことになる。今まで自分が乗ってきた車を実家の車も含めて振り返るとスバル、日産、三菱、トヨタ、そしてマツダということになる。ホンダはコーポレートのカルチャーは非常に好感をもっており、車のデザインや性能なども好きな方であるが、今まで縁がなくて乗ったことがない。アテンザは、デザインと居住性等に惚れて買った。ハンドルは重く、燃費も悪いところ、電気系統等ちょっとしたところで故障しやすい印象はあるが、気にいって乗っている。夏の伊勢志摩南紀白浜の1500キロの旅でもお世話になった。そのアテンザの3代目フルチェンジの新型車がお披露目された。今日息子のサッカー場へ向かう途中で、マツダの店の前を通りかかったので思わず、寄ってしまった。赤のセダンが置いてあったが、感動した。自分の今のっている旧型よりデザイン、コックピット、燃費性能等格段に進化を遂げていた。ガソリン高等の折、次乗るなら燃費の良いハイブリッドと思っていたが、ハイブリッドでなくても、このての大型タイプで燃費リッター20km強を出せるなら大満足である。しかも車体のソウルレッドのインパクトがすごかった。いくら歳をとっても赤色を乗りまわせるような歳の取り方がしたいものだと思った。とにかく新型アテンザはかっこいい。
テーマ : 愛車    ジャンル : 車・バイク
 
 

息子のサッカー初公式戦、奮闘むなしく敗退

今日は、息子の少年サッカーの区の公式戦があった。チームのエースが不在の中、相手が、1年生と2年生の混在チームでしかも一人多いという不利な条件の中での試合だったが、みんなそれぞれの持ち味を生かしてがんばった。相手チームの怒涛のシュートに応戦して、いわばゴールという状況を何度となく回避して、結局4対ゼロで負けてしまったが、この経験は次につながるものとして、彼らの中に残ったに違いない。こどもたちの奮闘ぶりは応援するお母さん、お父さんにも十分伝わってきた。普段静かなお母さんたちも、人が変わったかのように大声で応援していて、見ていて滑稽だった。こういう時のママさんパワーには圧倒される。やっぱりどこでも一番大事なところで支えているのはお母さんたちなんだなあと実感した。お母さんはつくづくえらいと思った。息子のサッカーで気がついた点は、まだまだ仲間で固まりすぎているという点だ。もう少しオープンスペースに自らの身を持っていけることがその場の状況判断でできるようになってくれればありがたい。さらに、ボールを果敢に取りに行くガッツさと、ボールをキープした際にもっと自信をもって、ドリブルなりパスなりする攻撃的な姿勢を前面に打ち出してもらいたい。息子へこの気持が早く届くことを願っている。
テーマ : サッカー    ジャンル : スポーツ
 
 

見えない星

サラリーマンの多くは、黒子として会社を支えている見えない星である。中島みゆきの歌で言えば、地上の星である。黒子は目立たないけれど、重要な任務を背負っている。黒子がいなければ会社は動かない。黒子の仕事を卑下することはない。誇りをもって黒子の仕事をまっとすればよいのである。黒子を大いに勇気づけてくれるコマーシャルを知った。キリンビバレッジの缶コーヒー「Fire」のコマーシャルでサラリーマンに扮する江口洋介が全国のがんばるサラリーマン、家族のために汗水たらして働くお父さんたちに送る応援メッセージである。
父さんは、ホームランを打たない。ゴールネットもゆすらない。
 でも、仕事には、バントする人も、パスする人も必要だ。
 父さんは、みえない仕事に誇りを感じている
。」

テーマ : 生き方    ジャンル : ライフ
 
 

平沼さん


昨日は、天気が良かったので、午後、散歩に出かけた。昨日のコースは、横浜駅で下車後、西口の高島屋や天理ビルの横を通って、軽井沢町を経て、三ツ沢方面に抜けて、三ツ沢公園で紅葉を楽しんだ後、丘を下ってビブレでショッピングし、西口に戻るという1万2千歩の散歩だった。家を出たのがすでに15時を過ぎ、日が傾いてきた時間帯だったので、三ツ沢公園を歩くころはかなり暗くなっていたが、いろいろ発見のある散歩だった。三ツ沢競技場は、神奈川県のもっとも歴史のある代表的な競技場で、大きなトラックのある陸上競技場や、高校野球などの会場として昔から使われてきた野球場、テニスコート、馬場などある神奈川県民であれば知らない人はいないほど有名な公園である。横の国道を車で走ることは度々あったが、三ツ沢公園に足を踏み入れるのは初めての経験だった。公園内には木々が生い茂り、紅葉できれいだった。競技場周囲の周回道路をジョギングしたり、犬の散歩をさせている方が多く、周辺市民の憩いの場となっているようだ。その三ツ沢公園で出会ったのが写真の銅像、聖火らしいものを高く掲げ持った「平沼さん」である。生粋の神奈川県民でありながら、恥ずかしいことながら僕は、平沼さんのことを知らなかった。横浜駅近隣に平沼と呼ばれる有名な街があり、それに関係した人かなあとか、聖火をもっているので、スポーツに関係したひとかなあくらいの印象しかなかったので、早速、家に帰ってから調べてみた。なんと平沼さんは、文化勲章も受章した有名な方であった。ご参考までに以下にご略歴他をご紹介してみたい。昨日は、天気が良かったので、午後、散歩に出かけた。昨日のコースは、横浜駅で下車後、西口の高島屋や天理ビルの横を通って、軽井沢町を経て、三ツ沢方面に抜けて、三ツ沢公園で紅葉を楽しんだ後、丘を下ってビブレでショッピングし、西口に戻るという1万2千歩の散歩だった。家を出たのが
• 銅像の平沼さんは、平沼 亮三さん(1879年(明治12年)2月25日 - 1959年(昭和34年)2月13日)という方で、日本の実業家、政治家、アマチュアスポーツ選手。元貴族院議員、元横浜市長。日本における市民スポーツの父と呼ばれる方だそうです。全日本体操連盟の初代会長であり、日本陸上競技連盟(日本陸連)の初代理事長・会長でもありそれぞれ、30年の長きにわたって市民スポーツに寄与されました。1932年(昭和7年)、ロサンゼルスオリンピックにて日本の選手団長を務め、1936年(昭和11年)、ベルリンオリンピックでも日本の選手団長を務めました。
• 東京六大学野球連盟会長となった功績もあり、1979年に野球殿堂特別表彰を受けています。
銅像「平沼さんの像」は、1955年(昭和30年)に行われた第10回国民体育大会秋季大会開会式で聖火の最終ランナーを務めたときの当時76歳の姿だそうです。その際の勇姿を見た昭和天皇が「松の火をかざして走る老人(おひびと)のををしき姿見まもりにけり」と詠まれたそうです。
1955年(昭和30年)には、文化勲章受章。スポーツによる文化勲章の初の受章者だったそうです。
想像していた通り横浜の平沼町との係わりもありました。横浜市西区平沼近辺(通称:平沼町)は祖先である5代目平沼九兵衛が1839年、埋め立てを始め、7代目平沼九兵衛の代で完成したものだそうです。
平沼氏は稽古に集う者たちにスポーツライスという名でカツカレーを提供していたということで、カツカレーの元祖とも言われています。

テーマ : 神奈川    ジャンル : 地域情報
 
 

女性の平均寿命が長いわけ?

女性は、男性より平均寿命が数歳高いですが、何故でしょうか? 7月26日、厚生労働省から2011年の日本人の平均寿命が発表されていますが、そのデータによれば、男性の平均寿命は79.44年、女性は85.90年です。東日本大震災が平均寿命を若干押し下げたようですが、香港に次ぐ世界トップ級の平均寿命を続けています。女性が男性より6歳も寿命が長いのは、男性社会で、過酷な労働から死に至るリスクが高いことによるものと考えておりましたが、別の説によれば、女性、まだまだ主婦として家事に奔走されている女性が多いわけですが、その家事が寿命に貢献しているようなんです。家事は立ったりしゃがんだりかがんだり家じゅう歩きまわったり、叩いたり、運んだり、持ったり、拭いたり、自転車こいだり、お店まで歩いたりと意外と重労働なんです。これをエクソサイズと考えれば毎日の運動量は半端ではありません。男性の営業職なども歩きまわって大変でしょうが、ホワイトカラーの多くは、デスクに一日中座ったままで、歩くのはランチのときくらいという方も多い中で、女性の大半を占める主婦は、一日中、体を動かしているわけですから健康的です。家事=運動と考えれば、健康維持の秘訣ともいえる運動で女性は男性を圧倒できるのです。それが平均寿命を男性より数歳引き上げているという説は、かなり確かなのではないかと私は思っております。
 
 

暖房のいらない生活

寒い季節がやってきました。暑さより寒さの方がどちらかといえば嫌いです。寒いと何もやりたくなくなります。寒いとすぐ思い浮かぶのがストーブであり、こたつであり、床暖房でありますが、我が家はそれらの暖房器とは無縁です。今、マンションの8階に住んでいますが、毎日陽光が降り注ぎ、温室状態でポカポカ状態で暖房のお世話になるのは、厳寒の1,2月の朝晩くらいで、その他は、必要ありません。暖房費が減って経済的にも助かっています。久しぶりに昨日、実家に帰りましたが、横須賀の方が横浜より少しは暖かいはずなのに、戸建ての実家は、非常に寒かったです。コートを着て室内ですごせばなんとかかろうじて過ごせる寒さですが、コートを着たまま室内で過ごすわけにもいかず、暖房をつけていました。改めてマンション生活のありがたさをかみしめた次第です。寒いと心まで寒くなってしまいますし、暖かいということはとてもありがたいことだと思って感謝しています。
テーマ : 無用の長物    ジャンル : 結婚・家庭生活
 
 

Santa Fe

海外出張でサンタフェに行ったのは、何年前だっただろうか?研究所時代の話だから、早いもので、十余年前のことになる。サンタフェで冬に行われるクローズドの小規模なシンポジウムに参加する為であった。その時のテーマは、ヒトゲノム解読に関するシンポジウムであったが、米国のヒトゲノムプロジェクトをリードするNIHの研究所長が最新の進捗を話してくれて会場と議論したが、そのホットな場に参加していることに興奮したのを覚えている。シンポジウムには、各会社から若手精鋭が参加していて、休憩時間には、サンタフェの街並みを特徴づけるアドビ風の日干しレンガの温かみのある家並みを歩いたり、一緒にアートギャラリーが立ち並ぶキャニオンロードを歩き、ジョージア・オキーフ美術館に立ち寄ったり、食事したりして過ごしたが、帰国してからも交流が続いている。そんな思いで深いサンタフェに今日はバーチャルトリップしてみたい。
サンタフェは、アメリカ合衆国ニューメキシコ州北部に位置する同州の州都。サンタフェはスペイン語で「聖なる信仰」という意味である。サンタフェは、同市名を冠した宮沢りえのヌード写真集の舞台となったことでも知られている。1991年に発売されたこの写真集は150万部のベストセラーとなり、社会現象にもなったこともあり、サンタフェの地名も定着した。人口は62,203人(2000年国勢調査)。1607年に創設された長い歴史を持つ古都で、アメリカ合衆国に現存する都市としてはフロリダ州セントオーガスティン(1565年創設)に次いで古い。アメリカの宝石と呼ばれ、歴史的な街並みや建築物を残し、独特の食文化を持つ観光都市として栄えている。憧れのルート66上の街である。また、同市は芸術家が多く住み、美術品にあふれ、音楽祭や工芸祭が開かれる、芸術の町としても知られている。サンタフェ一帯には紀元前10000年頃から遊牧系の原始インディアン(Nomadic Paleo-Indian)が活動していたと考えられており、農業は5世紀頃に開始された。11世紀中頃からティワ(Tiwa)族に属するプエブロインディアン民族が定住し、15世紀には5千人規模の日干しレンガによる積層型の集落を形成していた。
土着のインディアン族による町興し、スペイン人の入植とキリスト教文化の流入、メキシコによる統治など歴史の激動を経て、1821年にアメリカ合衆国のウィリアム・ベックネルがサンタフェ・トレイルを開通させると、メキシコや合衆国、テキサス共和国からの人や物資がサンタフェに運ばれるようになり、平原のインディアンたちはインディアン奴隷やバッファローの毛皮など交易品をメキシコ人に売って馬と交換し、このサンタフェを起点に平原に馬を持ち込んだコマンチ族やスー族は、一大騎馬民族となっていった。また彼らのもとを脱走した馬は、野生馬ムスタングとなっていった。
1841年、テキサス共和国はサンタフェ・トレイルの支配権を確立すべく、オースティンから小軍隊と隊商を出発させた。サンタフェ出征として知られるこの遠征は準備不足が災いし、すぐにメキシコ軍に撃退された。1846年に米墨戦争が起こり、その2年後に終戦条件を定めたグアダルーペ・イダルゴ条約によりアメリカ合衆国は他のメキシコ領と共にこの一帯を正式に割譲され、これをニューメキシコ準州とした。
1880年にはカンザス州アッチソン(Atchison)とサンタフェを結ぶアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が開通した。鉄道の開通と電報の発明により、サンタフェとニューメキシコ準州は産業革命を迎えた。開通当初は、サンタフェは鉄道をさらに西進させるにあたって重要な拠点になる予定であった。しかし、ニューメキシコ準州内の建設が進むうちに、技術者たちはサンタフェを取り囲むサングレ・デ・クリスト山脈に鉄道を通すのは現実的ではないと判断し、市の南のラミーに駅を置き、そこを西進への拠点とした。しかし、アルバカーキまで、そしてさらに西へと鉄道が通じると、サンタフェの町は次第に寂れ、経済的な地位は低下していった。1912年、ニューメキシコ準州は連邦の47番目の州に昇格し、サンタフェはニューメキシコ州の州都となった。
1926年には国道66号線が開通し、隆盛し始めた自動車交通がサンタフェを西海岸や中西部の都市と結んだ。1976年には、プエブロ・インディアンの文化交流のための「インディアン・プエブロ文化センター」が開設され、インディアン以外の観光客などにも彼らの行事が見学できるようになった。
自分が訪問した時はあまり感じなかったが、サンタフェの標高は高く、全米の州都の中で最も高所に位置するらしい。海抜2,130mに達するということで、州内のアルバカおーキ(1,631m)や「マイルハイ(標高1マイル)」として知られるデンバー(1,603m)よりも高い。確かに、一緒に参加していた知人は、高度の為気圧が低いことが影響して、耳の調子が悪いと言っていた。
内陸かつ高地の乾燥地帯にあるサンタフェは、気温の年較差と日較差がともに大きい。冬の最高気温は摂氏6度(華氏45度)ほどだが、最低気温は氷点下7度(華氏20度)まで下がる。夏の最高気温は摂氏30度(華氏86度)に達するが、最低気温は摂氏13度(華氏55度)まで下がって涼しくなる。
観光は州政府に次いでサンタフェの経済を支えている重要な産業である。過ごしやすい快適な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれ、治安が良く、歴史・芸術・文化の豊かなサンタフェは1年を通して多くの観光客を惹きつけている。
観光の中心となっているのはダウンタウンの歴史地区、特に総督邸に隣接するプラザ(Plaza)の周辺である。この地域には人気レストランが数多く立ち並び、有名シェフの料理を目当てに訪れる観光客も多い。ダウンタウンの南4kmほど、博物館・美術館が集中するミュージアム・ヒル(Museum Hill)や、アートギャラリーが並ぶキャニオン・ロード(Canyon Road)も観光の目玉となっている地域である。
サンタフェは文化の多様性を反映した芸術の町としても知られている。世界トップクラスの美術館が多い。市やその周辺は自然景観や動植物などの自然美に富んでいることから、ジョージア・オキーフをはじめとする多くの芸術家を惹きつけてきた。同市にはオキーフの名を冠し、彼女や協働したアーティスト、関連するテーマの作品を展示するジョージア・オキーフ美術館(Georgia O'Keeffe Museum)がある。同美術館に展示される彼女の作品群は2006年3月現在1,000点に達する。
サンタフェの芸術品市場はニューヨークに次ぐ全米第2の大きさで、ギャラリーや美術商の数は230を超える。キャニオン・ロードには、1マイルに及ぶ道筋にブティックやカフェと並んでアートギャラリーが軒を連ね、アメリカ芸術界の最先端を行く街となっている。これらのギャラリーは、サンタフェ発祥の実験芸術である現代サウスウェスタン芸術に加え、タオス・マスターズ芸術、さらにはプエブロ族やナバホ族の工芸品を中心としたインディアンアートやインディアン・ジュエリー、各国の民族芸術をも展示し、取扱っている。アメリカのアーティストにとって、キャニオン・ロードのギャラリーに絵を展示されることは一つのステータスとなっている。
サンタフェは19世紀に発展を遂げていくにつれ、その時代を反映した様式で街が整備されていった。しかし、1912年にニューメキシコが州に昇格すると、計画性のない都市設計によりサンタフェが「アメリカのどこにでもある街」になってしまうのではないかという危惧が生まれた。西進する鉄道敷設がサンタフェを避けて以来続いていた経済的な衰退もあって、市は観光振興の一環として、他に見られない独自のスタイルを確立しようとした。総督邸をはじめとする歴史的な建物を修復し、リオ・グランデ川流域のプエブロ族の伝統建築にならって市内の建物の外観をアドビ風に統一した。1930年頃になると、今度は白い壁や切妻屋根といった、スペイン植民地復古様式の建物を建て始めた。こうして、サンタフェは他に見られない独特な景観を持つ街になっていった。
1958年の条例では、建物の新築・改築の際には(特に歴史地区内においては)、スペイン植民地時代の様式、またはプエブロ族の様式を踏襲するように定めた。しかし、新しい建物の多くは外観こそスペイン風の白壁やプエブロ族のアドビ風であるものの、木材やコンクリートといったよくある建築材を用い、外観に漆喰細工を施したものが多い。地元住民は、このような建物をfake adobe(にせアドビ)と呼んでいる。サンタフェのランドマークの1つにもなっているニューメキシコ州会議事堂は、植民地時代の様式と新古典主義建築の両方の影響を受けた建築物となっており、アメリカ合衆国議会議事堂を模した形であることが多い他州の州庁舎とは一線を画している。
多くの航空会社が就航しているアルバカーキ国際空港を利用する人が多い。アルバカーキ空港には複数のレンタカー会社が隣接しており、またサンタフェ市内のホテルへは空港よりシャトルバス(Sandia Shuttle Express)が出ている。私も真っ暗になったアルバカーキー空港で予約していたシャトルの乗り合いバスに乗って、高速道路でサンタフェを目指した。慣れない土地で、本当にサンタフェに向かっているのかどうか不安に思いながら、到着したサンタフェらしき町に降り立って安堵した記憶がある。

テーマ : アメリカ合衆国    ジャンル : 海外情報
 
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